銅鐸の謎
 いろいろな謎が彼らにはあります。
・どんなことに使われたのか?
・なぜ土中に埋められたまま忘れさられたのか?
こんなことを基本にいろいろな謎がついてきています。
そしてこの後の古墳時代の墳丘墓には彼らは副葬品として、現れることがないということが
多くの人々の記憶から、彼らの存在を消し去り、謎を生んでしまったのでした。
 しかし、もっとも可能性のある祭祀行事につかわれたのなら、その教えを引き継ぐ者が必ず
存在したはずなのですが、教えを引き継いだ人々はどうなってしまったのでしょうか?
卑彌呼の鬼道として歴史にでてくる道教の後継者たちにも存在が認められません。
ということはこれ以前の祭祀である可能性が高くなります。
文献的な記録が無い今、考古学的な研究からしか答えは出てこないでしょう。

数百年の眠りから記録の中に覚めたのは667年の天智帝の時代でした。
ここでいくつかの文献に出ている彼らを紹介します。

扶桑略記巻五 平安末

滋賀県大津市  崇福寺建立予定地 天智7年 667

        高五尺五寸 1m66     15cmの白い石

続日本紀        

長岡野     宇太郡波坂郷人  和銅6年 713

高三尺 口径一尺

    元亨釈書第二十八巻 石山寺縁起一巻

    ???     石山寺建立時   天平年間

            高五尺

    日本紀略前編十四 

    播磨国              弘仁12年 821

            高三尺八寸 口径一尺二寸

    粉河寺大卒塔婆建立縁起 

    紀伊      粉河寺堂塔建立時 弘仁10年 819

            高一尺五・六寸 

    続日本紀第九

    若狭               承和9年 842

            

    三河国     渥美郡村中    貞観2年 860

            高三尺四寸 口径一尺四寸

            

    伊賀国     黒田の杣     平安のころ

            高三尺   袈裟襷式

 

 当初は発見されたことがとても良い知らせであるとは思われていなかったようですが、
徐々に宝鐸とよばれ、吉兆になっていったようです。
銅鐸の埋められている場所が昔から神社仏閣の敷地や其の近くにあることは、
使用目的のヒントになっていると思います。

銅鐸の夢

 なんとも謎の多い青銅器なんでしょうか。考古学者の発見よりも工事関係者の発見がほとんどと言っていいこの品物。
どこから出るか、全く予想のつかない彼らを予測することが私の夢です。