国造氏族「虎の巻」

毛野君・豊城命系
(崇神天皇)
上毛野国造
10崇神
群馬県
上野国
皇子豊城入彦命の孫
彦狭嶋
初めて東方十二国を治平
古事記
豊木入日子
上毛野、下毛野の君等祖
日本書紀垂仁紀
上毛野君の遠祖、八綱田
狭穂彦征討の功
倭日向武日向彦八綱田
姓氏録、和泉皇別
登美首、佐代公同祖
豊城入彦命男倭日向建日向八綱田の後
下毛野国造
16仁徳
栃木県
下野国
豊城命の四世孫
奈良別
元は毛野国分て、上下と為す
姓氏録
豊城入彦命六世孫
下毛君奈良
浮田国造
13成務
福島県相馬
磐城国相馬
崇神天皇五世孫
賀我別王

加宜国造
16仁徳
不詳
石川県?
加賀?
能登国造の同祖
素都乃奈美留命
高志深江国造と同名
能等国造
13成務
石川県能登
能登国
活目帝の皇子
大入来命の孫
彦狭嶋命
記述が非常に曖昧
古事記
崇神帝の皇子
大入杵命
能登の臣の祖
針間鴨国造
13成務
兵庫県加東
播磨国賀茂郡上鴨
上毛野君の同祖
御穂別の兒
市入別命
豊城命の孫
彦狭嶋命の子御諸別王
播磨国風土記
賀毛郡
国造黒田別

疑問点
能等国造は不明な部分が多い
まず活目帝の皇子に大入来命はいない
その上、彦狭嶋命は大入来命の孫ではないと思う
崇神帝の皇子豊城命の孫が彦狭嶋命である
大入来命は古事記に崇神帝の皇子に大入杵とある
彦狭嶋命の子御諸別王ですが、
姓氏録、右京皇別、佐伯直
景行天皇の皇子稲背入彦命の後、男御諸別命と出てくる。
応神天皇の播磨巡幸のおり、御諸別命の男阿良都命(一名伊許自別)が
針間別佐伯直を賜ったとある
御諸別王と御諸別命が別人とは思えないのですが。

加宜国造と高志深江国造の関係が、よくわかりません。
能登国造、道君等曖昧なものばかり繋がっている。
これも男系、女系の系譜の違いからくるものなのか?
素都乃奈美留は、原文では加宜国造の方は素都乃奈美小田になっています。
大野さんはどうして同一と考えたのでしょうか?
他の写本は奈美留になっているのでしょうか?

分布図
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