伊勢二見浦立石崎二見興玉神社
       参拝のしをり

昭和十四年一月十五日発行

御祭神並に御神徳

宇迦乃御魂神(豊受大神の御事)
五穀、養蚕、牧畜
造酒、漁猟、生産
営業、家宅、守護神


興玉神(猿田彦大神の御事)
壽福、開運、方災、田畠、
宅地、旅行、航海、建築、
土木、安全、潔清、和合、
善導、守護神


神社近況
伊勢神宮参拝の旅行数が、年一年と増加するに従ひ、
二見遊覧の旅客数、年三百萬有余に達せり。
従って二見興玉神社も一般奉賽者の為め、特に、海岸を埋め、
橋梁を架して、日乃出拝観所及び、接待所を設け、
湯茶を備へて、各自随意の安息に便ぜり、尚ほ、二見浦勝地景趣の保存と
神社に関せる尊厳維持の経営とには、今後、尚倍々蓋す所あらむとす。


二見浦の事

二見浦(ふたみのうら)は又二見潟(ふたみがた)とも云ひ、
雙鑑浦(さうかんほ)とも書(しる)し、一に清渚(きよきなぎさ)とも称す。
世上夫婦岩(めうごいは)の所在地なる立石崎(たていしざき)をのみ
二見浦(ふたみのうら)と称するやう思へれども、
元来、二見(ふたみ)の浦の名称は、今一色(いまいつしき)の
高代濱(たかしろはま)より東、打越濱(うちこしはま)、
御鹽殿浦(みしほでんうら)、立石崎(たていしざき)を経て、
松下(まつした)の神崎(かうざき)に至る沿海一帯の総称なり。
二見(ふたみ)の名は天照皇大神(あまてらすおほみかみ)
御遷幸(ごせんかう)の御途次(おんみちすがら)、
倭姫命御神霊(やまとひめのみこごみたま)を奉戴(ほうたい)して
當浦(ごうほ)に御着船(ごちゃくせん)あらせられし御時、
大若子命(おほわくごのみこと)の速雨二見(はやさめふたみ)の國と
御答へ申上げし起れりと云ひ。
又、此の濱邊を清渚(きよきなぎさ)と称するは、「勢陽雑記」に、
清渚(せいちょ)、今一色(いまいつしき)より松下村までの間の濱を云ふと傳へたり、
見渡す景色も余所に勝れて清浄の地と見え侍る、
此の邊(あたり)に高城(たかしろ)、打越(うちこし)、立石(たていし)、祓島(はらひじま)
など云ふあり、如何なる垢穢(けがれ)も此にて水(みづ)むすび、
祓(はらひ)をなすときは清らかになる渚なれば、
名にし負ひこと宜(むべ)なり云々(しかじか)と載せ。
「神境雑話」には、清渚(せいちょ)の儀も垢離(こり)する故に名つくにやと録し。
「勢陽五鈴遺響」には、毎歳(まいさい)九月外宮一禰宜(げくういちのねぎ)以下
高城濱に祓禊(みそぎ)の行事あるに據(より)て、
常人の立石崎及打越濱に垢離(こり)するも同義にして、
其禊事を修するの地なる故に、清渚(せいちょ)の名あるに據(よ)るなるべし
と説(ご)きたるが、古歌(こか)には、清き渚を詠(えい)じたるもの多く、
二見浦(ふたみのうら)の名と共に、神境(しんきやう)の一勝區(しょうく)として、
上古(ぜうこ)より世に顕はれたり。

なぎむれば心もすずし神風や二見の浦の松の村立
(聖玄法師)
紫の貝よる浦の二見潟浪のよするぞ花と見えける
(作者不詳)
伊勢の海清き渚の濱の浪もただ君に心をよする成けり
(讃岐)

近年、二見浦の名声弘く宣伝せられ、神境第一の景勝區として
浦頭(ほごう)の繁栄を呈するに至りしは、
明治十五年九月、長與衛生局長此の地に来り、
海水浴に適応せる由を唱導(せうどう)せしにより、
邑人(いふじん)相商(あひはか)りて冷温両浴場を建設して
好評を博したると、
同二十年三月、皇太后宮殿下行啓の御時、
新築賓日館(ひんじつくわん)に御宿泊あらせられ、
同二十四年七月、東宮に坐しし大正陛下、
御避暑の御為め行啓ありて、三旬の間賓日館に御駐陣あらせられし以来
遊覧、禊斎(けつさい)の為め茲に来る旅客頓に激増せしに縁由す。
爾来(じらい)、國母陛下東宮殿下を始め奉り、
皇族諸殿下神宮御参拝の御砌(おんみぎり)は、概ね此浦に御車を
まげさせ給ふ御事となり、當神社には、御幣帛料の御下賜ありて、
光栄ある歴史を重ね来れり。


考察

*大若子命
玄松子さんHP草名伎神社
神奈備さんHP櫛田神社
神社 anecs さんHP櫛田名姫
系譜的には、度会氏の祖ということになっています。
垂仁朝の頃の大神主


伊勢國風土記逸文に出てくる天日別命(あめのひわけのみこと)の後裔
風土記の安佐賀社に出てくる
中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命といったメンバーは、
後世の祭祀担当者の祖という感じですね。


ちなみに先代旧事本紀の伊勢国造は、忌部系の天日鷲命
さんまさんHP太玉命と天日鷲命

度会系譜に関して「古代氏族系譜集成」の説は面白い
大若子命・乙若子命などに結び付けて伊勢国造系にみせかけているのは、
後世の仮冒で、実際は丹波国造(丹波直)の一族であって、
祖系の名を丹波国造のそれに加工して編んだものという。
これは、天火明命系統
天火明命−天香語山−天村雲命−天忍人命−天戸目命
−建斗米命−建田背命−淡夜別命(海部祖)
の後が度会系譜だという話。
確かに倭姫の旅は丹波(丹後)元伊勢からも出ているからありえそうな話

伊勢遷宮関連は歴史楽さんの考察が面白かった。
歴史楽さんHP天照大神の伊勢遷祀と元伊勢

度会について
和銅四年三月六日
伊勢國人 磯部祖父・高志の二人に姓を渡相神主と賜う

*伊勢國風土記逸文(参考)
難波の長柄の宮に御宇しめしし天皇の丙午(646)のとし、
竹連・磯部直の二氏、此の郡を建てき。

竹連・・・多気郡多気郷
磯部直・・・度会郡伊蘇郷
磯神社玄松子さんHP

*勢陽雑記
明暦2年(1656年)に津藩藩士山中兵助為綱が編述した
*神境雑話
わかりませんでした
*勢陽五鈴遺響
安岡親毅、天保4年(1833)の著録