以前に解からないものに関して
どんたくさんに教えを請いました


今回、詳細に調べて頂いてメールを頂きました

本当にありがとうございます。

大三元さんがどんたくさんを「同好の士」
とされていましたが、
私にとってはお二人とも「同好の師」です



ここにその内容をアップします。
平成14年3月8日

どんたくさんに連絡を頂くまでに、
数カ所自力で発見しましたので、
現在のリストとは多少相違しております。

ペギラ「解らないリスト」はここ

ペギラ氏のホームページの「解らない」に対応した銅鐸の一覧表
佐原・春成「銅鐸出土地名表」考古学ジャーナルNo.210,1982.11.をベース

@ペギラ氏の命名  
A 県名 B 旧国名C No
D 地  名
E出土年 F号  
G型式・文様 H高さ (cm) I所蔵・保管
J 文  献
K備考(見直し後)同笵関係
L 備考(見直し後)その他
M見直し内容等
@肥後国発掘銅鐸                                  
          誤報をいう報告
@大阪新町吉田屋銅鐸
               不明
           
@讃岐国三豊郡一ノ谷村左門鐸
A 香川 B 讃岐 CY
D観音寺市・古川町南下(三豊郡一ノ谷村)
E1923  
G外2式 2区流 H45.8I 東博9881
J上原『考雑』13-11,『流水』,『研究』
L豊田出土説あり

@倭文
A兵庫B淡路 CX
D三原郡緑町・倭文庄田笹尾
E1959  
G外2式 2区流 H44.5 I東博37162
J『桜ケ丘』
K河内V・伝大和V・伊勢Yと同笵
淡路X<倭文>、河内V<恩智垣内山>、伝大和V<個人(橿考研)>、伊勢Y<神戸>  
M2区袈→2区流(神戸市博『銅鐸展』1993#103)
@倭文関連
A大阪B河内CV
D八尾市・恩智垣内山(中河内郡高安村)    
G外2式2区流 H44.3 I東博9212
J木崎『考雑』12-2,『研究』,『東博目録』1981 6.8kg。
K淡路X・伝大和V・伊勢Yと同笵
淡路X<倭文>、河内V<恩智垣内山>、伝大和V<個人(橿考研)>、伊勢Y<神戸>
L6.8kg。河内V<恩智垣内山>と河内X<恩智都塚山>は、約60m離れて出土
M河内Xとの関係追加。
東博9912→東博9212(『東博目録』1981p33)
@倭文関連
A奈良B伝大和 CV
D (大和国)    
G外2式 2区流 H44.5約 I個人(橿原考古研)
J『研究補』p44,田中琢「流水紋銅鐸」『青銅器』日本原始美術、
第4卷、講談社p175、図版33
K淡路X・河内V・伊勢Yと同笵
淡路X<倭文>、河内V<恩智垣内山>、伝大和V<個人(橿考研)>、伊勢Y<神戸>  
M 「橿原考古研」(010725橿原考古博・小池氏談)。
文献欄追加(『研究補』p44)
@倭文関連
A三重B伊勢CY
D津市・神戸 木ノ根(安濃郡神戸村)
E1917  
G外2式2区流 H39.8+ I東博8374
J『研究』
K河内V・淡路X・伝大和Vと同笵
淡路X<倭文>、河内V<恩智垣内山>、伝大和V<個人(橿考研)>、伊勢Y<神戸>    

@堀山田
A愛知B三河 C]V
D渥美郡田原町・西神戸 堀山田
E1962  
G突4式近畿VB H76 I田原町教委
J小野田『考雑』68-1
L土坑中に横たえて埋納  
@三河東願寺鐸  
A静岡B遠江CV
D湖西市・白須賀(浜名郡白須賀村鍛冶ケ谷)
E1801 F1
G突5式 近畿式H110約 I豊橋市・東観音寺
J『研究』,『研究補』 鈕のみ現存(34.2cm)  
L鈕のみ現存(34.2cm)=1尺1寸3分。栄根銅鐸から類推して身の高さ2尺6寸内外。総高120約→110約。 地名追加。
M総高120約→110約。(『研究補』p142〜149)
020314電話で確認。東観音寺:愛知県豊橋市小松原町14。 
TEL:0532-21-1747。2年に1度虫干し。2002年は8月末の土日の予定。


A静岡B遠江CV
D湖西市・白須賀(浜名郡白須賀村鍛冶ケ谷)
E1801 F2
G突5式近畿式 H120約  
I『研究』,『研究補』 『銅鐸図記』に「総高3尺9寸」。
L『掛川志稿』に「羅紋ありて蛮国文字とおもはるるもの六つあり」。
M地名追加。1号鐸の高さをこちらに移す。その他欄記入。(『研究補』p142〜149)

@六萬寺鐸
A香川B讃岐 CW
D木田郡牟礼町・源氏峰 
E1904  
G扁式 6区袈 H39.1+ I六万寺
J『研究』        
@駿河国駿東郡浮島村東井鐸
A静岡B駿河
D沼津市東井出字閑峯(駿河国駿東郡浮島村字東井出閑峯)
E1933以前  
G小銅鐸素文 H7.9
I東博『銅鐸集成』p877 閑峯   鰭欠。
J従来字名を「開峯」としていたのは誤り。
L地名:020314沼津市文化財センター山本係長に確認。東博ではこうなっている。高さ7.5→7.9:(『難波』)。
M地名:『銅鐸集成』では「沼津市原東井出字開峯」、
『難波』では「静岡県富士市東井川出開峯」。
角川・日本地名大辞典22静岡県
p1460:沼津市井出の小字名として閑峯(カンポウ)はあり、開峯はない。






@流木
A大阪B和泉 CX
D岸和田市流木町
E1956 F1
G外2式 4区袈 H32 I文化庁
J玉谷『古代文化』9-2 .        

@流木
A大阪 B和泉 CX
D岸和田市流木町
E? F2
G扁式か 文様不明 H16+  I?
J 森『古代学研』68
L鈕欠。復元高21〜22cm  
@誓願寺
A不明 B不明 CL]U      
G突式 近畿 H100約 I誓願寺(京博)
J『研究』
L鈕、底部欠  
M 「京博」追加(『研究補』p441)
@和泉浜寺鐸
A大阪B和泉 CV
D堺市・浜寺昭和町(泉北郡浜寺町 下)
E1928  
G扁式6区袈 H44 I堺市博
J島田『歴史と地理』21-6  
K和泉V<浜寺>,不明]W(奈良博)はよく似ている  
M020306堺市博・樋口学芸員に銅鐸の存在を確認

@和泉浜寺鐸関連
A不明B不明 CL]W      
G扁式 6区袈 H42.4 I個人(奈良博)
J『研究補』p412,『堺の歴史』角川書店1999  
K和泉V<浜寺>,不明L]W(奈良博)はよく似ている
L裾部の長径21.8cm。
Mこの項は新追加(010726奈良博・井口考古室長&佐藤・元堺市博副館長談)

@紀伊岩倉鐸
A和歌山B紀伊 CX
D田辺市秋津町・矢矧岩倉山
E1889          
J『研究』,島田『考古学』1-3,『研究補』    
Lもと、島田貞彦氏により大英博1号とされていた
Mデータを紀伊U<朝来>に移動。その他欄追加(『研究補』p324)
@紀伊岩倉鐸関連
A和歌山 B紀伊 CU
D西牟婁郡上富田町・朝来 野田坪
E1848〜53  
G突5式 近畿WC H120約I大英博1号か
J『研究補』    
Lもと、紀伊X<矢矧岩倉山>が大英博1号とされていた
M『研究補』には朝来岩崎とあるが、朝来と岩崎は隣接地同士。
データを紀伊X<矢矧岩倉山>より移動(『研究補』p324)  
前田「古代文化」47-10p32では大英博1号は突5式6区袈
@備中下稲木鐸
A岡山B備中 CU
D井原市・下稲木町(小田郡稲倉村)    
G扁式6区袈 H43 I個人
J梅原『吉備考古』83        
@砂山
A和歌山B紀伊 C]]T
D和歌山市田井瀬・砂山(紀ノ川の中州)
E1960  
G突3式か突4式 近畿UかV I和歌山市教委
J森『古代学研』71,『研究補』    
L破片40片。『紀伊風土記丘資図録』1999では
突4式近畿VC
M杭ノ瀬・砂山→田井瀬 砂山(紀ノ川の中州)、
和歌山市→和歌山市教委、破片40片(『研究補』p327)。

@速玉神社
A和歌山 B紀伊 C]\
D新宮市新宮神倉山・神倉神社ことびき岩下
E1957  
G突4式 近畿VBかC H60約 I熊野速玉大社
J『研究補』
L経塚遺物と混在。破片。前田「古代文化」47-10p32では突5式
M権現山→新宮神倉山、速玉神社→熊野速玉大社、破片(『研究補』p327)

@速玉神社
A和歌山B伝紀伊 CU
D(紀伊国)    
G扁式 4区袈   I速玉神社      
L紀伊風土記の丘資料館「きのくにの銅鐸」図録1999.10.には出ていない
M紀伊風土記の丘資料館「きのくにの銅鐸」図録1999.10.には出ていない

【凡例】
『研究』:梅原末治『銅鐸の研究』
『研究補』:梅原末治『銅鐸の研究』(佐原真補訂)木耳社 1985.11.
『流水』:三木文雄『流水文銅鐸の研究』
『銅鐸集成』:田中巽『銅鐸関係資料集成』東海大学出版会 1986.3.
『桜ケ丘』:『神戸市桜ケ丘銅鐸・銅戈』
『東博目録』1981:東京国立博物館図版目録 弥生遺物篇(金属器)1981
『三河』:蒲郡市郷土資料館『三河の銅鐸』
『祭りの』:佐原真『祭りの銅鐸』歴史発掘G 講談社 1996.7.
『考雑』:『考古学雑誌』
三木『銅鐸』:三木文雄『銅鐸』柏書房 1983
『人雑』:『人類学雑誌』
『考研』:『考古学研究』
『古代学研』:『古代学研究』