忌部
「古語拾遺」
玉作り工房の中心地 曽我玉作遺跡
阿波国・讃岐国・紀伊国・筑紫国・伊勢国・安房国
出雲国玉作りを統率。
原石産地
紀伊国・安房国・山陰・北陸
「古語拾遺」
@ 神武天皇の時にはまだ祭・政が分離せず、「神物・官物」の分別もなかったので、
宮の内にクラを建てて一緒に収納し、「斎蔵(いみくら)」と名づけて
斎部(忌部)氏に管理させた。
A 履中天皇の時になって三韓からの貢献が絶えることなく行われるようになったので、
斎蔵の傍に「内蔵」を建ててそれらの官物を収納し、渡来人の阿知使主と
百済博士王仁に出納を記録させ、蔵部を定めた。
B 雄略天皇の時になると、秦酒公が天皇の寵愛を受け、他氏に従属していた
秦氏の民を賜った。そこで、秦酒公は多くの勝部(すぐりべ)を率領して
絹を織成・貢進し、「庭中」に充積したので、「宇豆麻佐(うづまさ)」の姓を賜った。
これ以降、諸国からの貢調が年ごとに増加したので、蘇我麻智宿禰に
「斎蔵・内蔵・大蔵」の三蔵を検校させた。また、秦氏には出納、東・西
の文氏には帳簿を勧録させた。これにより、漢氏には内蔵・大蔵の姓を
賜ったが、これがいま、秦・漢の二氏が内蔵・大蔵の主鎰・蔵部に任ぜられる
ことの起源である。
C 天武天皇の時に八色の姓が定められたが、秦・漢の二氏、文氏らは
忌寸を賜姓された。これは、斎部と共に斎蔵の事に関与したからである。
いま東・西の文氏が祓太刀を献ることの起源でもある。
所遺(もりたる)十一カ条
@草薙剣を祀る熱田社は、祈年・月次・新嘗に預っていない
A祟祖敬宗が礼教の第一である。天皇の祖宗は天照大神で、
その尊貴さは比類がない。しかるに神祇官の班幣は
伊勢神宮が諸神の最後である。
B日神の石窟幽居の折、中臣・斎部・猿女三氏が協力して招出した。
しかるに伊勢神宮の宮司は中臣のみで、二氏に与らしめず。
C神殿・帝殿を造営し、大殿祭・御門祭の祝詞を申すのが忌部であるが、
伊勢宮と大嘗祭の由紀・主基の宮を造るとき、忌部を関与せしめない。
D大殿祭・御門祭は忌部の祝詞であるが、宮内省の奏詞に、
大殿祭のために中臣・忌部が御門に候うと言い、宝亀の頃になると、
中臣が忌部を率いて御門に候うと、主従関係の表現に言い改め、
未だに訂正していない。
E祭祀では中臣と忌部とは差がなく、
斎宮寮の主神司は中臣・忌部ともに
七位の官であったのに、延暦の初めの朝原内親王奉斎の日に、
忌部は八位の官に降したままである。
F奉幣は中臣・忌部共に預かるに、大宰の主神司は中臣のみ。
G諸国に大きい社に中臣のみを任ずる。
H鎮魂祭奉仕の御巫は、天細女の裔の猿女から選ぶべきなのに、
他氏でもよくなっている。
I大幣製造は、神祇官の神部の
中臣・忌部・猿女・鏡作・玉作・楯作・神服・倭文・麻続等の
氏が与るべきなのに、今は中臣・忌部等二、三氏のみ。
J天平勝宝九歳(757)の左弁官の口宣に、
伊勢大神宮の幣帛使を中臣に専任させよとある。
これは実行されていないが、記録から削除すべきである。
忌部氏に関して
当初、日本古来の祭祀の継承者なのだろうと思っていましたが、
どうも間違いのようでした。
天照大神と三種の神器の祭祀を行ってきた氏族のようです。
まさしく大和朝廷の成立過程でともに発展したのでしょう。
かなり半島などの文化を取り入れていた人々でしょう。
しかし物部氏・中臣氏vs蘇我氏・忌部氏という権力抗争には一度は勝ったが、
藤原氏・中臣氏vs蘇我氏・忌部氏という権力抗争には敗れ、
蘇我氏側に近すぎたために、蘇我氏と衰退をともにしてしまったようです。
古語拾遺にある御歳神、殺牛祭祀などは、どう見ても朝鮮半島の影響でしょう。
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