葛城・鴨の神々の考察

716年
霊亀
二年
(元正)
出雲国造
神賀事奏上
國造出雲臣果安
己命の和魂を倭の大物主の命と名を称え、
大御和の神奈備に坐せ、
己命の御子
阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、
賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、
皇孫の命の近き守神と貢り置きて、
八百丹杵築の宮に静まりましき

出雲の国造が、出雲国風土記には出てこない事代主を高市に置いている。
この時までに、出雲側でも日本書紀の内容を知り得たということだろうか。

720年
養老
四年
(元正)
日本書紀完成 672年天武元年
高市縣主許梅の神着
「吾は高市社に居る、名を事代主神なり。又身狭社に居る、名は
生霊神なり」

日本書紀のなかでは、もう一神、一言主神が問題となる。
この神様の扱いが日本書紀・雄略紀のお陰で、話がますますわからない状態になる。
日本書紀では雄略と共に馬を並べて狩り楽しんだということだが、
一言主命の説話は時代が下がる事にひどいことになっていく。
しかし、ここでは、石上神宮や高市社のように社があるとは記されていない。
神の存在のみ記述されているということ。

733年
天平
五年
(聖武)
出雲国風土記 意宇郡賀茂神戸
(倭名類聚鈔:能義郡賀茂神戸)
天の下造らしし大神の命の御子阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂
の社に坐す。

この後の764年に高鴨神は、葛上郡に帰ってくることとなるのだが、
出雲国の神税は、すでに葛城の賀茂の社・阿遅須枳高日子命に送っている。
ということで、続日本紀の高鴨神の記述についての混乱を招いてしまう。
続日本紀を信用するならば、高鴨神が帰ってくる以前に、
葛城には阿遅須枳高日子命が祀られていることになる。
それは、一体どこになるのか?

764年
天平
宝字
八年
(淳仁)
続日本紀から 十一月七日
復高鴨神を大和国葛上郡に祠る。
高鴨神法臣円興・弟中衛将監従五位下賀茂朝臣田守ら言さく、
「昔、大泊瀬天皇葛城山にかりしたまひし時、老人有りて、毎に
天皇と相逐ひて獲を争ふ。天皇怒りて、その人を土左国に流し
たまふ。先祖の主れる神化して老夫となり、ここに放逐せらる」
とまうす。
是に、天皇乃ち田守を遣して、これを迎へ本処に祠らしむ。

釈日本紀(1274年(文永11)〜1301年(正安3)頃)
或説云
従五位上、高賀茂朝臣田守ら奏して、葛城山の東下、
高宮岡の上に迎え鎮め奉る。
その和魂はなお彼の国にとどまりて、今に祭祀す。

この続日本紀の記述が、事代主も一言主も巻き込んだ混乱を発生させている。
その混乱をさらに混乱させたのが、釈日本紀の記述。
続日本紀本文注にあるように、日本書紀には高鴨神が土佐に流された話はない。
これが雄略帝の時代となると一言主神ではないか?という話になるのは当然だろう。
鴨族の提唱者・鳥越憲三郎さんの「神々と天皇の間」での見解は、
土佐から許されて帰ってきたのは一言主神と推測している。
「その一言主神が許されて葛城にかえされた翌年、天平神護元年に高鴨社は
神封として土佐二十戸を授かっている。一言主神を呼び戻したのは、高鴨社の神主である
高賀茂朝臣の奏上によるものであった。そこで、出雲国の神戸を失っている代りとして、
高賀茂朝臣の奏上を功として賞でて、土佐国の神封を与えたとみてはどうであろう。」
という推測である。
だが、この意見はおかしい!
こののちの新抄格勅符抄では高鴨神の神封は大和では二戸しかない。それも土佐の翌年。
鴨神は大和で三十八戸の神封をもらっている。
これは普通に考えるなら鴨神は大和に長く存在し、高鴨神は新しく大和に入った
という姿ではないか?この姿が続日本紀の記述と整合するのは当然ではないか。

765年
天平
神護
元年
二年
(称徳)
新抄格勅符抄
大同元年
(806年)
高鴨神 五十三戸
天平神護元年符・土佐廿戸 
天平神護二年符・大和二戸、伊与三十戸(合計五二戸だが?)

806年
大同
元年
(平城)
新抄格勅符抄 鴨神 八十四戸 (大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸)

高市御縣神   二戸

高鴨神五十三戸・鴨神八十四戸
新抄格勅符抄のこの形が三代実録の
高鴨阿治須岐宅比古尼神・従二位勳八等
高鴨神・正三位
という神階と符合するものになる。
鳥越さんは、三代実録の記述は高鴨神を鴨神と誤写・誤記ではないか?
とされているが、私はそうではないと思う。
鴨神・八十四戸=高鴨阿治須岐宅比古尼神・従二位勳八等
高鴨神・五十三戸=高鴨神・正三位
事代主や一言主のことを考えなければ、なんの混乱もないのである。

850年
嘉祥
三年
(仁明)
文徳実録から 葛木一言主神 神階  正三位
同じ時の大和國の神階記事例
大和大國魂神(従二位)石上神(正三位)大神大物主神(正三位)

日本書紀の記述以降、公式文書に一言主神が現れる初めてのもの。
新抄格勅符抄の神封には、一言主神は存在しないのである。
私は一言主神社は、806年から850年の間に創建されたものだと考える。
でなければ、新抄格勅符抄の神封に載らない理由がわからない。
場所的に葛城臣・蘇我家に謂れのある処。葛城臣関係の神社だと思える。
さらに葛城臣一族の墳墓であろう室宮山古墳を眺めるのには最良の位置でもある。

859年
貞観
元年
(清和)
三代実録から 高鴨阿治須岐宅比古尼神       従二位勳八等より従一位

高市御縣鴨八重事代主神       従二位より従一位

高鴨神                   正三位より従一位

葛木一言主神               正三位勳二等より従二位

高市御縣神                従五位下より従五位上

同じ時の大和國の神階記事例
大和大國魂神(従一位)石上神(従一位)大神大物主神(従一位)

ここでは、さらに日本書紀以降では初出の神が現れる。
高市御縣鴨八重事代主神
この神も新抄格勅符抄に載せられていない。万葉集にもあるというのに。
不思議なことは延喜式には川俣神社三座と高市御縣坐鴨事代主神社がある。
延喜式の時代では別々の存在だったということだろう。
もっと不思議なことは、三代実録の時代に従一位にいる神が
延喜式の時代になると「大・月次新甞」という惨憺たるお姿。
従五位上の高市御縣神ですら、「名神大・月次新甞」というのに。
三代実録の時にはあった「八重」の文字も延喜式の時には無くなっている。

905年
延喜
五年
(醍醐)
延喜式編纂開始
康保4年施行
(967)
鴨都波八重事代主命神社二座   並名神大・月次相甞新甞

葛木坐一言主神社           名神大・月次相甞新甞

高鴨阿治須岐託彦根命神社四座  並名神大・月次相甞新甞

高市御縣坐鴨事代主神社      大・月次新甞

高市御縣神社              名神大・月次新甞

いよいよ、この考察の結末となる。
ここでは、三代実録の記述と異なる現象が起きている。
この神も初出といってもいいでしょう。
鴨都波八重事代主命
そして消滅している神もいる
高鴨神
話が複雑に絡み合ってしまったのが、この延喜式だろう。
高鴨神と鴨都波八重事代主命の入れ替わりというのだけならば、
こんなに複雑にはなっていないと思うのだが。
私の推測は
鴨神→高鴨阿治須岐宅比古尼神→鴨都波八重事代主神社二座
高鴨神→高鴨神→高鴨阿治須岐託彦根命神社四座

阿治須岐託彦根と八重事代主が移動しているということ。

さらに土佐国風土記の記事に於いても、出所が釈日本紀だということ。
日本書紀の記述から考えれば一言主になるし、
高鴨神社の祭神から考えれば阿治須岐託彦根になる。

しかし、私は高鴨神という独立した神が存在したのだと思う。
時代の流れに翻弄される鴨の神々の姿だと感じている。