仮説

13・4・30

毎日古代史の迷路を右へ左へ、上へ下へとさまよい歩いてきましたが、
ついに推測では無く、一つの仮説としてもいいと思うものにたどりと着ました。
勝手に自分が思っているだけで、トンデモなのかもしれませんが、
ペギラ説としてここに披露いたします。

○銅鐸の使用目的
銅鐸に関して、「穀物豊穣に関わるのでは?」とした推測はみなさんされています。
自分もそう思っております。
しかしより具体的な使用目的が解かっていないのが現状です。
自分は「銅鐸水源祭祀説」というものを考えております。

加茂地名という偏った方向からいままで銅鐸を見てきましたが、
加茂地名から想像しているのは「水源」です。
大河ではなく、湧き水、井戸といったような水源です。それもかなり水質のいいもの。
銅鐸出土地に多いミワ地名のミワは神酒といわれています。
酒作りにも水質のいい水は欠かせません。
加茂の地は山際まで入り込んだ平野と言われています。
その山から湧き出る水を大切なものと扱い、その水を供給してくれる神山を崇拝する。
そしてその神山に雨を降らせる雲、もっとも形として見えたであろう雷雲を呼ぶために
火を焚き、雲を作り、銅鐸を鳴らし、雷神を招く。その地に埋め、水を導く。
今も雨乞山と呼ばれている山の麓より2例出土しているのがその名残ではないか。
これが前期銅鐸・鳴らす銅鐸の祭祀と考えています。
これはほとんど蛇信仰の依り代として銅鐸を使ったという形になると思います。
銅鐸の開口の部分は蛇の口になるのです。蛇の舌もちゃんとあります。
その口より良質の水を出してもらうのです。

○使用民族
いったいどんな人たちが使っていたのか?
これは使用目的よりもより一層難解な問題です。
私は長江カボト文明の担い手たちだとします。
直接渡来ということは難しいかもしれませんが、山東半島、朝鮮半島南岸より
あまり長江文明の形が変質する前に日本に辿り着いた人々です。
彼らによって、水田稲作、青銅器、蛇信仰等が受け継がれたと思っています。
すばらしく多彩な青銅器をもつ長江文明から考えると
日本に伝播した銅鐸は、とても幼稚なものに見えてしまいます。
しかし当時の辺境の地では、貴重な宝物なんです。

そして一つのキーとして酒造りがあると気づきました。
地名として、カミからカモに変化したとされるものがあり
カミとカモに共通する何かがあるように、
酒とカミはかなりの共通の関係が見られるからである。
酒は醸すものなのです。

○どうして使用されなくなったか?
これが、古代の謎での「銅鐸」部門の最高のものでしょう。
自分でもまったく想像ができませんでした。
青銅器祭祀に関しては、出雲、吉備地方では四隅突出型墳丘墓の出現によって
終焉を迎えていますが、畿内以東では以前発展し続けています。
北九州の銅戈、銅矛も同じように発展し続けています。
歴史上其の後、銅鏡と前方後円墳に従来の青銅器祭祀は形を変化しました。
自然崇拝的なものより、王=神の崇拝になっていったようです。

しかし、銅剣、銅矛あたりは記紀など文献資料などにも姿が見え隠れしていますが、
銅鐸に関しては、文献でも発見された当時の人々に驚きと疑問を与えています。
これはいったいどういうことなのか?

一つの共通事例を発見しました。
それは三輪山です。
この山は御神山として今も根強く崇拝されています。
現在大物主神、大神(おおみわ)神社ということになっていますが、
それ以前の神の姿が見えてこない。
三輪の神の始まりは、すべてここから始まっていると言っていいでしょう。
もちろんここに土蜘蛛がいたという記録はなく、可能性としてはニギハヤヒ、火明の名前である。
火明ではあまりにも新しく、従来の国津神としては考えられない。
そしてこの三輪の神の直接の子孫は、歴史上存在しません。
大田田根子というどちらかと言えば、加茂系の人により、復活したことは明らかなことです。
よって火明系の民族によって駆逐されてしまったと思います。
所謂天孫族と言われる人々がその地を支配する以前に、
三輪の神は、火明系の人々に国譲りをしているとしか考えられず、
その時点で銅鐸祭祀は終焉を迎えることになる。

このことは葛城の加茂にも言える部分があり、
葛城は高尾張が古名であるとする歴史は、後に火明系の人々による偽造であろう。
尾張氏の系図に見られる葛木は、決して古い人々ではないです。
どちらかというと葛城加茂を排除した後に来ているように見える。
三輪同様、葛城加茂もその時点で銅鐸祭祀継承者を失っているのでしょう。
そして物部の影は、加茂、三輪の地名地をピッタリマークしているのです。
どうしてそうなっているのか、気が付いた時は甚だ疑問でした。
しかし今こう考えると納得できるものがあります。

火明系の民族に駆逐されてしまった、銅鐸加茂三輪族は、細々と生き延び
天孫族による火明系支配の打破に協力し、祭祀者として復権したのでしょう。
もはや銅鐸祭祀というものの姿は無くなってしまったが、
新たな姿になって生き残っていったのでしょう。




これが私の現時点での仮説です。