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日本書紀
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三国史記
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512年
壬辰
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継体六年十二月
大伴金村
百済に四県割譲
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百済武寧王十二年
このころはすでに熊津が都
毎年のように高句麗と争っている
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513年
癸巳
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継体七年
伴跛国の反乱始まる
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522年
壬寅
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継体十六年
この記事は継体二十三年是月
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新羅法興王九年三月
加耶国王、花嫁求める
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523年
癸卯
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継体十七年
武寧薨
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百済武寧王二十三年五月
薨去、聖明王即位
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524年
甲辰
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継体十八年
太子明即位
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新羅法興王十一年九月
加耶国王と会盟
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525年
乙巳
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新羅法興王十二年二月
沙伐州軍主・伊登
(慶北西部・尚州)
百済聖明王三年二月
新羅と国交を結ぶ
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527年
丁未
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継体二十一年六月
磐井の乱の為
近江毛野臣百済に渡れず
(喙己呑・南加羅復興の為)
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529年
己申
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継体二十三年四月是月
近江毛野臣、熊川入り
毛野臣翌年対馬にて病死
・河内馬飼首御狩
・調吉士
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532年
壬子
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空位
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新羅法興王十九年
金官国王、来降
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537年
丁巳
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宣化二年
大伴金村大連に詔
磐・・・筑紫に留まり政を執り三韓に備ふ
狭手彦・・・任那を鎮め、百済を救う
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541年
辛酉
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欽明二年
百済聖明王と任那連合会談
・吉備臣
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新羅真興王二年三月是月
百済の講和の求め許した
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543年
癸亥
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欽明四年十一月
・津守連
・河内直
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545年
乙丑
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欽明五年三月
・的臣
・吉備臣
・河内直
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548年
戊辰
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欽明九年正月
百済より援軍要請
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百済聖明王二十六年正月
高句麗の侵入(漢江北)独山城
新羅援軍とともに大破
新羅真興王九年二月
百済、救援、侵入軍撃退
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550年
庚午
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百済聖明王二十八年正月
高句麗道薩城攻め落とすが
(忠北槐山)
三月に金見城包囲される
(忠北槐山)
新羅真興王十一年三月
道薩城・金見城奪い取る
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551年
辛未
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欽明十二年
是歳
聖明王、高句麗を撃って
漢城の地を得る。
平壌も討つ、故地六郡復す
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新羅真興王十二年三月
国王巡狩し、嬢城に留まる
(忠北清州)
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552年
壬申
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欽明十三年是歳
百済、漢城・平壌を棄つ
新羅、漢城に入る
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553年
癸酉
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欽明十四年十月
百済王子余昌の
高句麗進軍説話
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百済聖明王三十一年七月
新羅が東北辺境を取り新州を置く
新羅真興王十四年七月
新州軍主を武力とした
十月百済王女を娶る
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554年
甲戌
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欽明十五年正月二月
百済より救援要請
五月、内臣、舟師率いて百済に
十二月、函山城を攻める
さらなる援軍を求めてきた
百済聖明王討たれる
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百済聖明王三十二年七月
新羅襲撃のため、狗川に。
新羅兵に殺害される。
百済威徳王元年十月
高句麗が熊川城をせめたが、敗北して帰る
新羅真興王十五年七月
百済聖明王、加良と連合して
管山城を攻撃されたが、
(忠北沃川)
奇襲攻撃で百済王を殺した
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555年
乙亥
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新羅真興王十六年正月
完山州を比斯伐に置いた
(慶南昌寧)
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561年
辛巳
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欽明二十二年是歳
新羅日本に備えて
阿羅波斯山に城を築く
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百済威徳王八年七月
百済辺境を侵略するが破れる
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562年
壬午
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欽明二十三年正月
新羅、任那官家を滅ぼす
七月
大将軍・紀男麻呂
副将・河邊臣瓊缶
新羅の任那を攻める
・河邊臣と白旗の話
・調吉士伊企儺
・倭国造手彦
八月
大伴狭手彦の高句麗進軍説話
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新羅真興王二十三年七月
百済が国境地帯に侵入したが撃退
九月
加耶反乱
加耶城に白旗を立てる
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