竹生島のいわれ

竹生島は、琵琶湖の北端、葛篭尾(つづらお)崎の南2キロメートルにある島で、東浅井郡びわ町に属しています。周囲2キロメートルの石英斑岩からなり、全島が杉、松などの常緑樹で覆われ、社寺以外の集落はなく、古来信仰の対象とされてきました。

 竹生島の成因についての伝承(『帝皇編年記』ほか)によれば、伊吹山と浅井の岡が高さを競ったところ、浅井の岡が一夜で高さを増したので、伊吹山の神が怒って浅井比賣の首を切り落とし、その首が琵琶湖に落ちて竹生島となったといいます。島には浅井姫命をまつる「都久夫須麻(つくぶすま)」神社があります。中世以降、神仏習合により弁財天を本地仏とし、竹生島弁財天は、江ノ島、厳島とともに日本三弁天に数えられました。

 この「つくぶ」は、「イ(斎)・ツク(付)・ブ(生)」の転とする説があります。

神仏分離(竹生島)

琵琶湖北部に浮かぶ竹生島にも、神仏分離の波は、およぶことになった。
明治二年大津県は、宝厳寺(ほうごんじ)住職峯覚以(みねかくい)を出頭させ、
「延喜式」に式内小社として都久夫須麻神社の記載がある旨を指摘して、
縁起や古記録類の提出を命じた。
さらに四年二月には、縁起の記述などを根拠に、弁才天社の都久夫須麻神社への
改称を命令した。
これに対して、宝厳寺は、大津県の命令はかえって神仏混淆の事態を招くと反論、
弁才天社仏堂としての存続と都久夫須麻神社の新設を嘆願した。
しかし、大津県の態度は強硬であり、あくまでも拒否すれば、坂本日吉社における
廃仏毀釈のような事態が発生するともかぎらないと宝厳寺を威嚇して、
改称命令のすみやかな実行を要求した。
このため、宝厳寺はやむなく改称命令をうけいれ、弁才天像は観音堂(のちに
宝厳寺塔頭妙覚院座敷)に移され、常行院覚潮が還俗・神勤するようになって、
竹生島の神仏分離はいちおう終了したのである。
 竹生島は神仏一体の聖地であり、神仏分離以前には妙覚院など宝厳寺の四つの
塔頭によって管理されており、明確に神事といえるものさえ行われていなかったようである。
混乱のうちで最大のものは竹生島最大の祭礼である蓮華会の執行権の帰属問題と、
弁才天像および観音堂敷地の移管問題であった。
明治二十年代なかばになっても、宝厳寺と都久夫須麻神社は対立するが、
結局蓮華会は民俗化した仏教行事として宝厳寺に残り、
弁才天像の移管も実現をみなかった。

「滋賀県の歴史   山川出版社」より

近江の遺跡
穴太(あのう)遺跡 大津市、縄文後期
当時の原生林の樹痕がそのままのこる。
方形、円形の竪穴住居が一部重なっており、石皿・磨石などがみえる。
谷川にはドングリ、トチなどを詰めた貯蔵穴があり岸辺には配石遺構もある。
粟津湖底遺跡 大津市、縄文中期初頭
湖中の一画を鋼矢板で仕切り、陸化して調査された。
セタシジミを主体とした貝層、トチドングリなどの堅果類を主体とした植物遺体層。
北仰西海道遺跡
(きとげ)
高島郡今津町、縄文晩期
土器棺墓約96基、土壙墓100基前後が混在する墓地。
一画では土壙墓(中央)1基と土器棺墓4基があり、
土器棺はそれぞれ直立、斜位、横位に置くものが認められる。

針江浜遺跡 高島郡新旭町、弥生前期
鋼矢板で仕切り、陸化して調査された。
現在の湖面より約2.9m下位の面で竪穴住居や掘立柱建物
大量の遺物、炭化米などが検出された。
弥生中期の地震で沈没したとみられる。
雪野山古墳の
竪穴式石室
八日市市、古墳前期
未盗掘であったため、埋葬当時の状況がよく残る。
舟形木棺は腐敗していたが、その下の粘土床上に
副葬品がそのままの位置で遺存していた。