苧環型神婚説話
三輪地名起源
陶津耳命の女活玉依毘売の子
神君、鴨君の祖
オホタタネコ
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河内美努邑(大阪府堺市)の意富多多泥古命神の子と知れる所以は、
上に云へる活玉依毘売 其の容姿端正しかりき。
是に壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無きが、夜中の時にたちまち到来つ。
故、相感でて共婚ひして共住る間に、未だ幾時もあらねば、
其の美人妊身みぬ。爾に父母其の妊身みし事をあやしみて、其の女に問ひて曰ひけらく、
「汝は自然ら妊みぬ。夫无きに何由か妊身める。」
といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しい壮夫有りて、其の姓名もしらぬが、
夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ。」といひき。
是を以ちて其の父母、其の人知らむと欲ひて、其の女にをしへて曰ひけらく、
「赤土を床の前に散らし、閉蘇紡麻(へそを)針に貫きて、其の衣の裾に刺せ。」といひき。
故。教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通りていでて、
唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、
美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。
故、其の麻の三勾遺りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。
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815年成立「新撰姓氏録」
大和国神別大神朝臣条
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大神朝臣。
素佐能雄命の六世孫、大国主の後なり。
初め大国主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫に娶ひたまひき。
夜の曙ぬほどに去りまして、来すに曾に昼到まさざりき。
是に、玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、
明くるに到りて、苧の随に、尋ゆきはれば、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の
御諸山に指れり。還りて、苧の遺を視れば、
唯、みわのみ有りき。之に因りて姓をおおみわと号けり。
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肥前国風土記
松浦郡褶振峯条
任那出征大伴狭手彦、弟日姫子の物語
「紀」には出征宣化二年、欽明二十三年に見える。
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狭手彦の出征後、夜毎に弟日姫子のもとを訪れては暁早々に帰ってゆく
狭手彦に瓜二つの男があった。あやしく思った彼女は、績麻(うまを)を
男の欄に繋け、麻糸の随に尋ね往ったところ、峯のほとりの沼の蛇に到った。
親族が彼女を追って峯に登って見ると、蛇と弟日姫子は共に亡く、
沼の底に彼女の屍があったので、峯の南に墓を造り収めた。その墓は今にある。
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常陸国記
鹿袋第八所引
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雉の尾に繋けた績麻(へそ)を辿って伊福部岳の雷神に到った。
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