御日の神拝所の事

當神社域内は、古来日の出の名所地として、夏至の頃には雙巌(さうがん)の間に
富士山の霊容明らかに現出し、其の峯頭(ほうごう)より目覚ましくも崇厳(そうごん)なる
紅敦(こうとん)海上に浮び出づ、其の光景実に繪畫(くわいぐわ)の偽りなきを
証して余りあり。
抑(そもそも)日出國中(につしゅつこくちゅう)唯一の霊地に処して
東海昇旭(とうかいしょうきょく)の壮観に接すれば、
天祖天照皇大神の鴻固(こうご)を感拝して、偉大なる思想を興起せずんばあらず、
しかして御日(おんひ)の神の拝所(はいしょ)たる旧蹟千古変らず、
古今に宣伝せられし有声の畫、無声の詩、よく其の真髄を発揮せるに想到して、
轉無量(うたたむれう)の感興(かんきゃう)を覚ゆ。
謹みて按ずるに、天照皇大神を日の神と仰ぎ奉り、
赫々(くわくくわく)たる霊光を崇拝して、萬邦に秀でし心性を涵養(かんやう)し来りし、
日本民族の古習旧慣の尊重すべき事は、国史の伝へて以てその神徳(しんとく)を
彰明(せうめい)せれう所に由りて立証せられたり。
殊に、皇大神御遷幸の御時、御船(みふね)をこの浦に停め給ひ、
立石崎を経て江川(えがは)に入り、五十鈴川(いすすがわ)を遡り
川上の大宮処に鎮座し給ひし神跡(しんせき)、厳然として存在する、
この興玉大神祭祀の霊域にありて、東海よりさし昇る旭影(あさひかげ)を
拝迎(はいげい)し奉るは、即ち天照皇大神の大御稜威(おほみいづ)を
拝する義にして清き暁の潮氣(しほかぜ)に浴し、心神を明潔(めいけつ)ならしめて
神國々民の幸福を禮讃し奉るは、正に敬神の大義にかなへる、伝統的古俗の美風を
称すべきなり。

   雙鑑浦観出日歌    ョ 山陽

金鳥新浴大東洋 帯濕朱輪未吐芒 参山遠山猶宿霧

海濤漸作赤金光 三萬六千中一日 来此始見全日出

瞬息飛升難正視 乃信催吾白鬢髪 今日春盡浴呼(角+光)

傳語義和且徐行


考察

*頼山陽

頼 山陽(らい さんよう)安永9年(1780)〜天保3年(1832)
 頼山陽は安永9年、広島藩士で朱子学者の頼春水(しゅんすい)の長男として、大阪の江戸堀に生れ、その後、安芸(あき、広島)に移り住む。江戸後期の漢学者、儒学者、歴史学者。本名は襄(のぼる)、字は子成、通称 は久太郎、別号は三十六峰外史。
 寛政9年(1797)には江戸へ1年間遊学、尾藤二洲に師事し、朱子学・国学を学ぶ。寛政12年(1800年)には広島藩を脱藩し、京都に行くが連れ戻されて幽閉される。幽閉された5年間、山陽は著述に専念。その後、京都に塾を開き、梁川星巌、大塩平八郎らと交流。尊王思想の影響のもとに「日本外史」を著し、松平定信に献じた。他の主な著書として、「日本政記」、「日本楽府(がふ)」等があり、明治維新の思想に大きな影響を与え、天保3年、53歳で没する。


頼山陽史跡資料館

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