大注連縄並に蛙奉献の事

注連縄は太古所謂日御綱(ひのみつな)にして、
中古に在りては尻空米縄(しりくめなは)、或は尻籠縄(しりごめなは)と云ひ
「日本書記」にも端出之縄と書し、藁の尻即ち端を断たずして籠め置き、
穂殻(ほがら)を残せし儘(まま)左綯(ひだりなひ)になすを古法(こはふ)とし、
其の起源は、神代の昔、天照皇大神の再び岩屋に入り給はざるやう、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が太縄(ふとなは)引延(ひきは)え給ひしを
はじめとす。
立石に牽き延えたる大注連縄もこの古式に據りて精製したるものにて、
縄の総長百二尺を要し、岩頭に結び懸くるに
大岩は長四十八尺、小岩は長二十七尺、中間長二十七尺と法とす。
此の大注連縄奉献の趣意は一切の不浄を解除して災禍(わざはい)の
来るのを防ぎ止むる為にして、
毎年一月五日、注連縄張神事を執行して崇敬者の大祈祷を修するを例とせり。
小注連縄は大注連縄奉献の代用にして、同じく此の霊地に禊斎する者の
社頭に奉納する古式なり。
安政年間の海嘯(つなみ)以前までは、大岩中腹に螺旋状に
岩柱凸起(いははしらごつき)し居りしかば、参詣者の小注連縄を
丸めて此の岩柱に嵌(は)めかけて奉献せしが、
岩柱損失以来輪注連縄の形に改めたるもの、
即ち今用うる所にして、奉献者此の小注連縄を以て身を祓ひし上、
神前に奉献すれば、翌朝奉献者の為めに家内安全、家業繁昌の
祈祷を修し、毎年六月、十二月の晦日に注連縄焚神事を執行す。

蛙(かはづ)の奉献は元来此の地が御日(おんひ)の神の拝所なるを以て、
皇大神を御日(おんひ)の神と崇(あが)めたる時代に在りて、
彼の祝詞式に、所謂、谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに依り、
日の神に谷蟆々(たにくぐ)を献じたるものなりと伝説あり、
或は佛説に、皇大神此の浦に於て金色(こんじき)の霊蛇(れいだ)と化して
本地(ほんち)の御姿(おんすがた)を現はし給ひしより、
蛙(かはづ)を献するに至りしとの伝説をも存せるが、
社伝によれば、往昔海中の興玉神石(おきだましんせき)の露出したる時代に於て
参宮者が旅行安全に、或は航海安穏に、無事立ちかへるの
願意を以て奉献するに至りしと云ふ。
而して此蛙は、小児(せうに)の痣(あざ)、腫物(しゅもつ)等を撫でて祈願すれば、
必ず平癒すと信でられ、遂に身代(みがわり)蛙(かはづ)の名さへ
附せられて授與(じゅよ)を請ふもの頗る多し。


考察

*蛙の奉献

これには、3説あるということ。

@祝詞式から、「谷蟆々(たにくぐ)の狭渡(さわた)る極みなどあるに」から
谷蟆々(たにくぐ)を奉献した伝説


A佛説から、金色の霊蛇に(かはづ)を奉献した伝説

B社伝から、参宮者が旅行安全・航海安穏に、無事立ちかえるの願意をもって奉献した。

*万葉集 
白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行<公>者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬<木>成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 <公>之来益者

作者: 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
 
 
 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山
 い行きさくみ 敵(あた)守る 筑紫に至り 山の極(そき) 野の極見よと
 伴の部を 班(あか)ち遣し 山彦の 應へむ極み 谷蟇(たにくぐ)の さ渡る極み
 國形を 見し給ひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く來まさぬ 龍田道の
 丘邊の道に 丹つつじの 薫はむ時の 櫻花 咲きなむ時に 山たづの
 迎へ參出(まゐで)む 君が來まさば

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世間(よのなか)は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行くへ知らねば うけ沓を脱き棄(つ)るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木(いはき)より 生(な)り出し人か 汝が名告(なの)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君(おおきみ)います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲の 向伏(むかぶ)す極み たにぐくの さ渡る極み 聞(き)こし食(お)す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに 然(しか)にはあらじか
 反 歌
 ひさかたの なほなほに 家に帰りて 業(なり)を為(し)まさに
         (万葉集 巻五 八〇〇 八〇一)

*延喜式祝詞

生嶋(いくしま)の御巫(みかむなぎ)の辭竟(ことを)へ奉(まつ)る皇神(すめがみ)等(たち)の前(まへ)に白(まを)さく 生國(いくくに)・足國(たるくに)と御名(みな)は白(まを)して辭竟(ことを)へ奉(まつ)らくは 皇神(すめがみ)の敷(し)き坐(ま)す嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)は 谷蟆(たにぐく)の狭度(さわた)る極(きはみ) 鹽沫(しほなわ)の留(とどま)る限(かぎり) 狭(さ)き國(くに)は廣(ひろ)く 峻(さが)しき國(くに)は平(たひら)けく 嶋(しま)の八十(やそ)嶋(しま)堕(お)つる事(こと)無(な)く 皇神(すめがみ)等(たち)の依(よ)さし奉(まつ)るが故(ゆゑ)に 皇御孫(すめみまの)命(みこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を 稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと宣(のたま)ふ

このしおりでは、日本書紀を日本書記としている。
戦前はそうだったのだろうか?誤記か?