二見興玉神社の事
當神社には、興玉社(おきだまやしろ)及び三宮神社を合祀す。
元三宮神社は宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とせしが、
古き参詣記等には、三狐(さんぐ)神社と書し、
佐軍神(さぐじ)又、石神(しゃくじ)とも書けり。
宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)は豊宇氣毘賣神(とようけひめのかみ)
の御別名にして、御饌都大神(みけつおおかみ)の御事なり、
又保食神(うけもちのかみ)とも大宜都比賣神(おほげつひめのかみ)とも
申し奉り、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の
御子とも御孫とも傳へたり。
この大神は衣食を幸(さちは)ひ産業を加護し給ひ、
又内宮の御饌都神(みけつかみ)として最も貴き神徳を具へさせ給へり。
此の神社はもと域内なる天之岩戸(あめのいはと)の内に祭祀せられしが、
文禄年間、其の外側に遷祀(せんし)し、明治四十二年本殿に合祀せり。
元興玉社(もとおきだまのやしろ)は祭神猿田彦大神に坐す。
往古は海中なる興玉神石(おきだましんせき)を敬祭(けいさい)し、
立石の前に遙拝所(えうはいしょ)を設けしが、
天平年中、僧行基(ぎやうき)此の地に来りて興玉神(おきだまのかみ)の
本地垂迹(ほんぢすゐじゃく)なりと称して江寺(えでら)を創建し、
其の境内に興玉社(おきだまやしろ)を建てて鎮守(ちんじゅ)の神とし、
以来永く佛門(ぶつもん)によりて祭祀せられしが、
後世神縁(しんゑん)旧に復して此の処に御遷座せられし由来在す。
又この大神の御神徳は神代史天孫降臨章にある如く、
天津日高日子番能邇々藝尊(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、
天照皇大神の神勅に依りて文武百官を随へて國土に天降りましまさんとする時、
先駆の神立(かみたち)還(かへ)りて白(まを)さく、
天の八衢(やちまた)に一神あり、鼻の長さは七咫(ななた)、
背の長さは七尺に余り、口尻(くちしり)は明(あか)く輝きて、
眼は八咫鏡(やだのかがみ)の如く上は高天原(たかまのはら)を照し、
下は葦原中國(あしはらのなかつくに)を照らす、
怪しき神あり、其の威容(ゐよう)近づく可(べ)からすと、諸神進みて向むものなし、
天照皇大神、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、天細女命(あめのうづめのみこと)
を遣はして問はしめ給へは、猿田彦大神畏みて、
天神(あまつかみ)の御子は筑紫日向高千穂峯に天降り給ふべく、
吾は伊勢の狭長田(さながた)五十鈴(いすず)川上に行かんと答へ給ひ、
天孫降臨の嚮導(きょうどう)をおはりて後、猿田彦大神は天細女命に
侍送(じそう)せられて伊勢に還り永く此の地に住ませ給へり。
蓋し神代に猿田彦大神は天照皇大神の永劫御鎮座あらせ給ふべき
五十鈴川上の大宮地(おほみやどころ)を守護し奉る幽契(ゆうけい)を承はりて
茲國(このくに)に住み給ひ、天孫降臨の際天の八衢に上られ給ひて、
天孫嚮導の大任を承はり、忠勇偉烈(ちうゆうゐれつ)、大勳赫々たる神威を
顕はし給ひしかば、地神(くにつかみ)の中にても特に大神(おほかみ)と
尊称せられ給へり。
斯く広大なる神徳と有し給ふにより、古来多方面に崇拝せられ給ひ、
佛道(ぶつだう)にてはこの大神を庚神(こうしん)と称(とな)へ
或は青面金剛(せいめんこんごう)と尊び、或は岐神(くなとのかみ)、
塞神(さやりのかみ)、又幸神(さいのかみ)、金精神(こんじゃうじん)などと
崇めて、神仏混合の信仰をなすこと今尚全国的に行はれたり、
抑(そもそも)、猿田彦大神を種々の神徳によりて敬称を種々にするも、
内宮御垣内(ないくうみかみうち)の西北隅(せいほくぐう)に石畳を設け、
興玉神(おきたまがみ)として大宮地々主(おおみやところちぬし)の神徳を
敬祭(けいさい)せられしによれば天八衢に御偉績を顕はし給ひし
衢神(ちまたがみ)と仰ぎ、天祖鎮御地(てんそちんぎょち)の
大地主神(おほとこぬしのかみ)と崇め奉るぞ、
この大神を尊祀(そんし)奉る正しき道なるべき。
御鎮座傳記
狭長田之猿田彦大神。中略訓悟白久。中略
吾復為二生物一、仁授二與壽福一之故名二大田神一
吾復反二魂魄一之故號二興玉神一悉皆自然之名也
考察
*合祀
このしおりでは、三宮神社の合祀が明治42年となっているが、
明治41年とする資料もあるようです。
昭和20年に栄野神社も合祀されていますが、
このしおりの作成以後の話となります。
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